佐藤俊命

ありがとう嬉しいわ


   2023年7月16日付カトリック新聞の記事に、幼きイエス会ニコラ・バレ修道院の日本管区長高橋睦子修道女60歳が話されたことが記載されていました。 「修道会のあるシスターは認知症になっても、いつも「ありがとう、うれしいわ」しか言わないので、そこにいるだけで、その場が平和になってしまうんです。 そのシスターが老人ホームに入った時のこと、さまざまな共同部屋でいざこざがあるたびに、そのシスターはベットごと問題の共同部屋に移され、部屋替えさせられたそうです。 シスターが入ると共同部屋が平和になるからです。 寝たきりでも、なお、ピースメーカー(平和をつくる人)として用いられています。 そういう認知症もいいですよね。」
   どんな事柄も人も肯定的に受けとめられる許容性・包容力のある人、「ありがたい」「嬉しい」をいつも言える人には、人が集まってきます。 そういう人のそばにいると、平和と受容を感じたり、励まされるからです。 平和をつくりだす人のそばにいれたら、どんなに心地よいでしょう。
   残念ながら、この世で幸せに暮らしている人が多いとは言えません。 思いどおりにならない、満たされない状況に直面し苦しんでいます。 さらに、人びとを絶望に引き込もうと、背後に、目に見えない悪の力、サタンとデーモンがこの世で働いています。 
   だからこそ、罪と死に勝利したイエス・キリストに心を据えて堅く立つ必要があります。 聖書の励ましと解決に目をとめましょう。 聖書詩篇103:2「わがたましいよ。 主をほめたたえよ。 主が良くしてくださったことを何一つ忘れるな。」 造り主で、私たちの魂の親である神さまは、私たちの滅びを救うために、御子をすら惜しまない良い方です。 不満足なことや心配なことに思いを集中するのでなく、主が良くしてくださったことを一つ一つ思い出しましょう。 神さまはキリストを通して、すべてのとがを赦し、いのちをあがない、永遠に支えてくださいます。 今日伝えたいメッセージは「恵み豊かな主イエス・キリストにつながり、感謝に満たされれば、心の平和をもたらす人に変えられる」です。
   魂の羅針盤である聖書の御言葉は、私たちにどう語りかけているか見てみましょう。 旧約聖書の詩篇103:1-6にこう書かれています。 「わがたましいよ。 主をほめたたえよ。 私のうちにあるすべてのものよ。 聖なる御名をほめたたえよ。 わがたましいよ。 主をほめたたえよ。 主が良くしてくださったことを何一つ忘れるな。 主は、あなたのすべての咎を赦し、あなたのすべての病をいやし、あなたのいのちを穴から贖い、あなたに、恵みとあわれみとの冠をかぶらせ、あなたの一生を良いもので満たされる。 あなたの若さは、鷲のように、新しくなる。 主はすべてしいたげられている人々のために、正義とさばきを行われる。」 私たちは、ひどい扱い、不当な仕打ちを受けたことを、いつまでも覚えているのに、良くしてもらったことを忘れやすい。 旧約聖書出エジプト記を読むと、古代イスラエルの民は苦役や危険のたびごとに、主によって窮地を救われました。 しかし、新たな問題、困難が持ち上がると、主がこれまで助けてくれたことを忘れたかのように、簡単に心の平安を失って主と指導者モーセに不平・不満を口にしました。 主はモーセのとりなしを受けいれ、ご自分の契約を思いおこし、不信仰なイスラエルの民をあわれんで滅びから救いました。 人の心は、主が良くしてくださったことを忘れやすいところがあります。 神は御子イエス・キリストを遣わして、福音を宣べ伝え、障害者や病の人たちをいやし、すべての人の罪を赦すために、十字架でイエス・キリストをあがなわせました。 主は、正しい裁きを行い、すべての人の救いのために、最良・最善をしてくださいます。
   新約聖書ピリピ人への手紙4:11には、こう書かれています。 「私はどんな境遇にあっても満ち足りることを学びました。」 1テモテへの手紙6:6-8「満ち足りる心を伴う敬虔こそ、大きな利益を受ける道です。 私たちは何一つこの世に持って来なかったし、また何一つ持って出ることもできません。 衣食があれば、それで満足すべきです。」 1テサロニケ人への手紙5:15-18「いつも善を行うよう努めなさい。 いつも喜んでいなさい。 絶えず祈りなさい。 すべての事について、感謝しなさい。」 
   使徒パウロは、彼を強くしてくださる方イエス・キリストによって、あらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています、とピリピ人への手紙4:12-13で言っています。 キリストにあって生かされていることに、彼自身満足し感謝しています。 そして、テモテには足るを知って信仰の戦いに勝利することを、テサロニケの信仰者たちには喜び・祈り続けること・感謝を命じています。
   神から離れて、自分の欲望・願望に囚われていると、際限のない不安に捕らわれ、際限なく自分の欲望を求め続けます。 キリストに出会って救われ、新しい人にされるまで、真の満足、真の平安はありません。
   不従順・不信仰な人たちに厳しいところもありますが、聖書の神さまは、実は、優しいあわれみ深い方です。 それは、神の本質の完全な現れとして、神でありながら、人を救うために人になってこの世に来てくださったイエス・キリストを遣わしたことから明らかです。 イエスさまはご自身を「わたしは心優しく、へりくだっている」(マタイ11:29)と紹介し、だから「すべて疲れた人、重荷を背負っている人は、わたしのところに来なさい。 わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイ11:28)と語りかけます。 
   私たちの罪を赦し、新しく生かすために、キリストはご自分のいのちを私たちに与えてくださいました。 平和の君イエス・キリストにつながることで、新しい心・心の平和を受け取れます。 
ここまで、「恵み豊かな主イエス・キリストにつながり、感謝に満たされれば、心の平和をもたらす人に変えられる」ことを学んできました。 心優しく、へりくだっておられる平和の君イエスさまにつながっていると、いつも「ありがとう、嬉しいわ」と言える人に変えられていきます。 主が良くしてくださったことを忘れずに、感謝、満足、平和に生きて、信仰の戦いに勝利しましょう。

新しい人となるために

「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。」(2コリント 5:17)

佐藤俊命


   私は、現在、9人の刑務所の受刑者の方々と、個々に、面会や手紙のやりとりをしています。 彼らに、「自分自身についてどう感じているか」聞きますと、「自分を変えたい」という願いをほとんどが答えます。 彼らは、今から思えば、軽率で誤った言動、やるべきでないことを、繰り返しやっている自分がなさけない、変わりたい、変わらねばならない、悔い改めたい気持ちはあるけれど、その方法がわからない、など苦しいこころのうちを告白します。 
   変わりたい、という願望は受刑者に限ったことでありません。 ほとんどすべての人が、特に感受性豊かな思春期の頃、自分の願う理想の自分と現実とのギャップから自己嫌悪に悩んだ経験があるのでないでしょうか。 変わるなんて無理だ、とすぐ諦める人、それでいいんだ、と居直る人、あるいは生涯こつこつと諦めず、成長をめざす人もいるでしょう。 ただ、「三つ子の魂百まで」と、云われるように根本的な性格は、なかなか変わりずらいでしょう。 一方、価値観、世界観が変わって、生き方が変わった人がいることも事実です。 とはいえ、ほとんどの人が、受刑者の方々同様、変わりたいけれど変われないでもがいているのが実情のようです。
   聖書・ローマ人への手紙7章に、次のように書かれています。
「私には、自分のしていることがわかりません。 私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行っているからです。・・・・・・ 私は、自分でしたいと思う善を行わないで、かえって、したくない悪を行っています。 もし私が自分でしたくないことをしているのであれば、それを行っているのは、もはや私ではなくて、私のうちに住む罪です。」(ローマ7:15、7:19-20) 私たちは、罪の支配のもとにあると、自分の気持ちに反して、したくない悪を行ってしまう、と聖書は云います。 罪のとらわれ・罪の奴隷になっているかぎり、やっていけないことをやり続け、変わろうとしても変われないのであります。 さらに、聖書では、罪の結果/罪の報いが死だと教えています。
   「義人はいない。 ひとりもいない。」と聖書がいうように、すべての人が罪の支配下にあり、神から離れて迷い出ています。 誰もが自分の努力や人間の知恵では、罪からのがれることも、それゆえ自分を変えることができないのであります。 
   私たちに変わるチャンスはないのでしょうか。 「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。」(2コリント5:17)は聖書のことばです。 聖書は、キリストを受け入れると、変わると言います。 聖書はなぜそう言うのでしょう。 新しく造りかえられるために、聖書から学んでいきましょう。 

   最近は、人はロボットを造って、人の作ったプログラムに従って、人に役に立つ作業を期待します。 かつては、ロボットは単純作業をこなしていましたが、AI(人工知能)を装備したロボットは状況を自ら判断し、高性能な働きをするようになりました。 もし、AI(人工知能)を持つロボットが人間の指示を無視したり、反抗したり、反乱して、自己主張し、世界や人間を支配しようとしたら、どう思いますか。 人間によって人間のために造られたはずのロボットが、人間に歯向かうなんてとんでもないと思うかもしれません。 人間を造った神さまに人がしていることがまさにこれです。 人が神なしで、ひとりでに大きく成長したと考えるなら大間違いです。 すべての造り主であり、宇宙天体・気象を支配する神さまが、太陽を昇らせ、雨を降らせます。 太陽なしには、植物は生育せず食べ物ができません。 雨が降らなければ水を飲めません。 空気をただで存分に吸えることも、神さまが与えてくださったからです。 ヒマラヤの高地に行くと、酸素の量が標高5400mで平地の二分の一、8000mで三分の一の薄さで、酸素ボンベで息吸うだけで一日当たり100万円かかるそうで、ヒマラヤ登山家は何百万円払って酸素ボンベを買うそうです。 ですから、平地に戻ってくると、ただで空気を吸えるありがたさが身にしみるそうです。 生きている、というのは、実のところ、神さまのお恵みで生かされているのです。 罪に曇った思い上がりが、神の恵みとはからいに気づくことをできなくしているのです。 神なんかいない。 神なんか関係ない。 高ぶって強がり言うのは、身の程知らないだけです。
   聖書でいう罪はなんでしょう。 聖書でいう罪は、人が造り主なる神を主権者としてうやまわず、無視し、逆らい、つながりを拒否し、愛の関係を捨てて、自己中心に生きようとする心の傾向、神さまが定めたルールからはずれた行為、不従順さです。 的外れの生き方です。
   罪に囚われ、がんじがらめになっているために、人は新しく変わることができません。 自分に不本意なことをさせ続けている罪の支配から脱しなければ、変われません。 しかし、罪と死は人の手に負えない。 人間の力だけでは、人間の知恵と努力では、罪と死に打ち勝つことが出来ません。 
   ありがたいことに、罪のゆえに滅ぶ運命にある人間に、神のほうから一方的に、助け・救いの手を差し伸べてくださいました。 これが福音・Good Newsです。 神の御子イエス・キリストを神を人として受肉させて地上に送り、私たちのすべての罪の罰をキリストに身代わりに負わせて、私たちの罪を赦そうとしたのです。 キリストは私たちひとりひとりへの愛ゆえに、あがないのために十字架の処刑で、死んでくださったのです。 イエス・キリストはあなたを本当に助けるために、新しく生まれ変わらせるためにご自分の命を捨ててくださったのです。 それで終わりでなく、私たちに救いと永遠の命の約束を保障するために、ご自身を勝利の神として証明するために、キリストは罪と死に打ち勝ち、三日目に死からよみがえったのです。 復活のキリストを救い主として信じる誰もが、永遠の命を与えられ、神の家族に入れられると告げられました。 あなたのためによみがえったのです。 今も生きていらっしゃいます。 あなたの今日の問題、あなたの今日の痛み・悲しみをわかってくださるのがイエス・キリストです。 イエス・キリストのみが罪と死に打ち勝って、罪と死からの解放者として、私たちを救うことができます。 
   「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。」(2コリント5:17)の意味はこうです。 イエス・キリストを自分の救い主として信じる誰もが、過去の罪が何であれ赦されてキリストと一つとなり、古い自分はキリストと共に十字架で死に、新しい自分がキリストの復活の力を得て、キリストにある新しい命・永遠の命をさずかり、霊的に新しい人に生まれ変わります。
   実際、新しい人にならせてください、と信じて祈って、絶望から希望の人・チャレンジの人に変えられた実在の人を紹介します。
   その人の名は田原米子といいます。 米子さんが高校生のとき、お母さんが脳溢血で亡くなったことがきっかけで、「人は何のために生きるのか」考え悩みました。 周囲の大人は、その疑問に答えてくれませんでした。 高校生の米子さんはぐれていきました。 たばこ、酒、パチンコ、一晩中ダンスしても空虚でした。 いっそのこと死んでしまいたいと思うようになって、小田急電鉄新宿駅の最終電車に飛び込みました。 神のはからいというべきか、事故後の対応が完璧で、一命が取り留められた。 しかし、米子さんは両脚と左腕、それに右手の2本指を失いました。 米子さんは絶望のなかでまわりの人たちをののしり、恨みました。 どうしてみんな、わたしを死なせてくれなかったんだ。 誰が助けたんだ。 死に損なってこんな体になってしまって・・・。 やがて、友達も親戚の人も来なくなりました。 しかし、アメリカ人宣教師と通訳の日本人が病院に訪ねてくるようになりました。 宗教には関心がなかったが、ふたりの誠実さには心が安らぎました。 ある晩、ふたりはテープレコーダーを持参してある宣教師のメッセージを聞かせた。 それを聞いて、米子さんは、やりなおしてみようと思いました。 祈り方もわからず、出て来た言葉は「助けてください」。  イエス・キリストを単純に心の中に受け入れたのです。 その晩、ぐっすり眠れました。 目が覚めて、「ほんとうに空はきれいだなあ」と思いました。 枕もとに宣教師が置いていった聖書を見つけて、あけて、目に飛び込んできた言葉が、2コリント5:17でした。 わたしは神さまによって新しくしていただいたのだなあ、と思った。 これまで自分の指を見ても指3本しかないと情けなく思っていたのが、そのときから指3本も残ってる。 この手は動く。 本が持てる。 開けることが出来る。 もしかしたら鉛筆が持てるかもしれない。 と、思うことができたのです。
   米子さんは、大きく変えられて、チャレンジの人にされました。 ペンを使えて手紙を書けるようになりましたし、電話もでき、料理も作れる、裁縫もできる、鶴を折れる、工夫と訓練でたいていのことを自分でできるようになりました。 結婚し、2人の娘を産み、育児をこなし、大きく育てました。 また、牧師夫人として、伝道にも奉仕しました。 多くの病院を訪れ、障害者を励ました。 
   米子さんは、2005年67歳で天に召されました。 次のことばは、亡くなるおよそ1年前に米子さんが語った講話の一部です。
「主を待ち望んだとき、神さまは私を引き上げてくださり、新しく変えてくださいました。 3本しかないと思っていた指が、3本も残っていると思えるようになり、何でもチャレンジできるようになりました。 皆さんも主に信頼して歩んでいきましょう。」

   ここまで、自分の努力や人間の知恵や方法だけでは、変われない。 失敗に終わる。 罪の奴隷のままだからです。 「キリストにあって、生まれ変わらなければ、新しい人になれない。」ことを学んできました。 
   イエスさまの福音を宣べ伝えた最初のことばは「悔い改めなさい」でした。 悔い改めとは、心の向きを神さまの方向に正しく変えるために、古いよごれた心を捨てることです。 イエス・キリストを信じて、あなた自身を一新させなければ、本当に変わることはできません。 中途半端では、変われません。 よごれた水でいっぱいのコップをイメージしてみてください。 コップの中の水を入れ替えようと、上からきれいな水をそそいでも、上からこぼれ落ちるばかりで、なかなかきれいな水となりません。 よごれた水を、まず捨てて空にしてからきれいな水を入れると、コップの中の水がきれいな水となります。 私たちも、本当に変わろうとするなら、悔い改めて、よごれた心を捨てなければなりません。 
   信仰によって、イエス・キリストの似姿に変えられ、ひとつにされていきます。 古い自分は、キリストと共に十字架で死に、新しい自分がキリストと共に復活し、新しく生まれ変わります。 イエス・キリストを救い主と信じるすべての人に、聖霊さまが働いてくださって、超自然的な神さまの助けにより、新しい人にされていきます。 「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。」あなたも、この聖書のことばに、あなたの人生をかけてみませんか。 

祈り:神さま。 ひとりひとり、新しく生まれ変わらせるためにイエス・キリストを、与えてくださってありがとうございます。 イエスさまを素直に心の中に受け入れて、歩んでまいりますから、どうぞ新しい人にしてください。 主の御名によって、アーメン。 

              主からの平安のうちに生きよう

                                        石黒 素枝

          ある日の事、私はやらなければならない事がいろいろ重なって、「ああ、どうしよう。 これをやって、
       あれをして・・・ああ、時間が足りない。」 と心の中で焦っていました。 その時、部屋に飾ってあった
       みことばカレンダーのみことばが目に飛び込んできたのです。
       『人の心には多くの計画がある。 しかし、主のはかりごとだけが成る。』(箴言19章21節)
          私は、このみことばを声に出して読んでみました。 5回位読んだでしょうか。 ふっと心が軽くなりま
       した。 「私は、自分だけであれこれ考えて、心配して焦って、主の前に重荷を持って行くという一番大事な
       事を忘れていた。 そう、どんなにあがいても、、主のはかりごとだけがなる。」 そして、主に祈りました。
       「主よ。 私の重荷をお委ねします。 どうぞ、何が優先的にする事なのか、今日でなくても良いものが
       あるのかどうか、知恵をお与えください。 どうぞ為す事のできる力を与えてください。 主のご計画だけが
       なりますから。」
          主の平安をいただきました。 本当に不思議です。 私の力では到底できないと思っていた事が、
       スムーズにできたのです!

          『ハドソン・テーラー”キリストに生きる人”』の文中のことばを紹介します。 ハドソン・テーラーが
       ある大きな集会で語ったメッセージの一節です。
         「主が待ち望んでおられるのは、主の民が心の重荷から解放され、十分に必要が満たされ、力にあふれ、
       健康で朗らかである事です。 『何も思い煩わないで、あらゆる場合に感謝をもってささげる祈りと願い』
       (ピリピ4:6)によって、重荷や心配ごとの元になる事は何でも神に打ち明けて祈り、主からの完全な
       平安のうちに生きていこうではありませんか。」

          この世では、困難や問題がたくさんあります。 父なる神様は、私達が重荷や心配事を何でも打ち明けて
       祈り、主からの平安のうちに日々を生きるようにしてくださったのです。 何とすばらしい生き方を主は
       備えてくださった事でしょう。  ハレルヤ!
                             (原町聖書教会月報・2015年12月号より)


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2023.12.14
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